WAKE UP YOUR MIND’S “JESUS”

 明日が愉しいと思えるなら、生きていられる。

 be patient. ――忍耐強くあれ。日に何度も己を戒めるのは自らが放埒な性根を飼っていると知っているからだ。
 良い子ちゃんでいたいってことかい、ご苦労な話だ、と〈炎使〉が言う。点数稼ぎの外面か。くだらねえ自意識とプライドさ。――いいや違う。私はそうは思わない。
 もっと本質的な危機管理だ。

「エドウィンって何で生きてるのかな?」
 レモン味のシャーベットを食べながらクリストファーが言った。
「は?」
 エドウィン・アーサー・K・クレイトンは、食卓の傍らの立ち位置から聞き返す。この少年がくりだしてくる唐突な質問には常に二十四時間ウェルカムの札をかかげて立つエドウィン・アーサーだが、どんなに用心深くストライクゾーンをひろげて待ちうけても、たまに脳天めがけて飛んでくるビーン・ボールは避けられないものだ。
「何で、といいますと……そこには、私にとって自動的な『どうにもとまらない』の事象と、とりあえず能動的な意志の要因と、宝くじで一億ドルあたっちゃう系の受動的な命運というような部分が、さまざまに同居しておりますね」
「うん。つまりぼくはこの夏シャーベットとアイスクリームで生きることにしたんだけど」
 輝く黄金のスプーンを唇にあてて、ぼんやり宙を眺める目つきでクリストファーが続けた。
「ジャスティーンはお金で生きてるし、カルロは卵黄とメレンゲで生きてるよね?」
「……はあ、なるほど」
「たぶんファイアマスターは記憶で生きてるし、ルウは好奇心で生きてるんだよね」
「……ええ、なるほど」
「それでたぶんエドウィンはぼくで生きてるんだけど、そのときぼくがアイスクリームで生きてるってことはエドウィンの人生はハーゲンダッツに左右されてるのかな?」
「もちろん、とても左右されていますよ」
「ふうん。ハーゲンダッツって偉いんだなあ……うっかり壊さないようにしなくちゃ」
 それはちょっと違う結論なのだがエドウィン・アーサーは反論しなかった。ただ、万が一ハーゲンダッツの支店が近所になくなっても世界の涯からでも私が買ってきますから大丈夫ですよと答えた。
「ただし、シャーベットとアイスクリームだけでは栄養が偏ります。忘れずに三度のお食事を召しあがっていただかなくては」
「うん。エドウィンは? 栄養は偏らないのかな?」
 また難題だ。エドウィン・アーサーはしばらく、クリストファーをみつめたまま黙った。あまり、お茶を濁して避けてよい局面にも思えなかったので。
 嘘ならば鋭敏に読む、この万能の少年には、心をすべて覗かれてもしかたない。しかしだからといって言葉選びに手をぬくことを、クリストファーは嫌うのだった。
「You filled me up, sir. ――充分に機能的なサプリメントだと思いますよ、クリス様」

 それは本質的な危機管理だ。
 赤いシグナルが点滅する前に保全しなければならない炉心の火。
 眼前の男の頭に銃口を向けながら考える。
 死んだ庭師のかわりに雇われた、その新しい暗殺者が、催眠や暗示を拒む頑健な精神のつくりを盾に生きのびるつもりだったと知ったときエドウィン・アーサーはいっそはればれと哄笑したかった。
 残念ながら私は不具者ではないのですよ。まして清廉潔白な聖者などでも。
「だから、超能力の手品でしか人を殺せないというわけでもないのです」
 ――何を勘違いしたのか?
 銃爪をひいた右手がばしゃっとはじけた鮮血と醜い体液を浴びた。訓練どおりの射撃姿勢は肩や手首にかかる衝撃をきちんと減らしたが、どろっと指のつけねに入りこんだ他人の体温は避けがたい不快だった。
「あーあ、庭先でやりやがった」
 通りがかったガディスが舌打ちをした。彼もまた無関心な残酷さで言う。
「ちらかしたものは、自分で片づけろよ」
 ――もちろん。言われなくともエドウィン・アーサーはそうした。何もなかったように、元通りに。
 その暗殺者の名が嫌いだった。アーサーという凡庸な名の男だった。厭な皮肉だった。

 ルウ・シルヴィアンは屋敷の門をあけて、花屋から届いた生花の束を腕いっぱいに抱えたところだった。夏の光が天からきらきらと降って、濃い橙色の向日葵に吸いこまれていくような昼下がり。
 屋敷に戻る小径をふりむいたら、ちょうどエドウィン・アーサーにでくわした。
「ミスタ・クレイトン! おでかけですか?」
 朝のうちに聞いた予定には入っていなかったから、花束ごしに声をはりあげて尋ねた。こんな真夏日でも仕立てのいいスーツを着崩さないエドウィン・アーサーが、品のいい笑顔をルウへ向かわせた。
「ええ、ミズ・シルヴィアン。ハーゲンダッツ・アイスクリームのラズベリー味を買いに」
「あら、大変! わたくし、走って買ってまいりましょうか!?」
「いいえ大丈夫ですよ、これも私の愉しみのひとつなので」
 それなら、ネクタイくらいゆるめても誰も見とがめないだろうにとルウ・シルヴィアンはひそかに考える。けれど、ルウは彼のそういう自律心が好きだった。
「クッキー・アンド・クリームも美味しいですよ!」
 ルウは口の横に片手をあげて、エドウィン・アーサーの背中に声をかけた。
「どうもありがとう、忘れずに買ってきますよ」
 エドウィン・アーサーが答える。まるでそれ以上の幸福が、この世に存在しないほど、彼が幸せであることをルウ・シルヴィアンも知っていた。
 そう、きっと。

〈了〉

※初出 1999年8月 (商業誌未発表作品)

ラッシュ 最終回

 ここに棲む僕らの耳はだいたいイカれている。
 恒常的に非常識にでかい音を聴きすぎて鼓膜は摩滅するばかりだ。
 僕の脳細胞はつぎつぎと摩滅してろくに誰の顔も憶えない。
 さざめくライトの熱を浴びて眼は焼ける。
 僕は、溺れかけた必死の船長がつかむ舵のように黒いスティックを両手につかまえて、4カウントを叫ぶ。
 そのときだけ僕がすべてを操っているようだ。
 あァ死んじまうな。
 そんなこともよくあることだ。
 僕らをとりかこむ見せ物小屋の檻の内外に繋がれた酔狂なやつらがみんなよろこんで何かを臓腑から吐きだすように口をあけてロックスターの名を呼ぶんだ。
 左側から白く厚く、するどい刃先が来る。
 ギター。
 僕は、左の中指の骨の芯から冷たい電気に侵入され満たされて凍りつきそうだ。
 本能の知っているやりかたで僕の左手は時間の急所を狙って一発ずつリズムの弾丸を撃ちこむ。
 斬られるな。撃ちころせ。
 無慈悲に。
 そんな僕らの殺戮を猶斗は気にかけない。
 歌った。
 彼を追う光芒と歓声の軌跡を腕で描いて、とびこむんだ。炉心の火に。
 笑うんだ。
 まだ、もっと。
 僕らがはじくおどけた変拍子の棘の上を、たちの悪い猫のように媚をふりまいてスキップした。
 走れ。
 こぶしをふりあげる群衆のひとつひとつの顔を殴るように、歌った。
 黒いエナメルの背中が僕の正面で酸素を吸いこんでは火をつけて吐きだす。
 僕は、その背中からすべての装飾を剥いで裸の肩肉を喰いちぎりたい。野蛮に。
 どうだいジェントルメン。
 腹は減ってんのかい。
 どうだい。
 生きてけんのかい。
 ??生贄の血を飲み、肉を喰え。きっと葡萄酒とパンの味がするぜ。
 今夜はキリストがいるぜ。
 ああ僕の身体が勝手に操られて止まらなくなって連れていかれる先はどこだか知っている。
 一瞬だけさ。
 脈拍より速くかけめぐる真っ白な真っ白な光が来るんだ。
 歯をくいしばって見ろ。
 僕らの醜悪な四肢の叩きだす原始の響き。
 つよい光が拡がって、遠く、高波のように観客の頭上を嘗めていった。
 悦楽に啼いてとりみだすあの子たちの顔を、鮮明に暴いていく。
 闇の海の彼方まで僕らの叩く生命の塊がまっすぐに貫通してゆくのが僕の場所からは見える。
 とても見晴らしが良かった。
 汗だかエビアンの水だか判別のつかない輝きの飛沫をはねとばして猶斗が。
 僕らの舞台の真ん中で一度、歌いながら、勢いのついた鞠のように肩から転がった。まばゆい天の鉄骨を睨んで笑った。摩滅して衰退する肉に逆らって、はねおきた。そうだ、行っちまえ。僕は、いっそう左側の殺意に従って、右側のライドシンバルを殴る。行っちまえ、と叫んだ。
 ふりむいて猶斗が僕らを見た。僕を、ベーシストを、キーボーディストを、ギタリストを。彼を貪り殺戮する僕らを。それは、なんだったのだろう。怯えのようでも、嘲笑のようでも、陶酔のようでもある表情で、頬を痙攣させた。
(歌えねかッたら、死んじゃうなァ)
 なんでもないと僕は思う。
 なんでもありゃしねえ。
 ただの震えだ。
 猶斗が喉を覆うかたちに掌をあげる。光が彼を追う。帯電した空気がふきつける。嵐のように膨張する音圧。歓声と放熱。
 なにもかもを蹴散らすみたいに猶斗がそのとき、跳んだ。
 ステージのへりの、その先へ。
 屹立する断崖の向こうへ。
 消えた。
「??落ちたアッ」
 どこかでだれかの悲鳴がした。
 最前列の柵に我をわすれて腕をのばすレミングの集団が殺到する。
 バリケードをおさえる警備のスタッフが将棋倒しの危機に見舞われて凄絶な抵抗をこころみる。
 けれど舞台にいる僕らは、誰ひとり、刻まれるビートの連続を止めずにいた。
 ステージからぬけおちた歌の、ぽかりとした空洞をそのまま持続して、叩いた。
 不恰好な代わりの音で埋めもしなかった。
 ただ、続けた。
 僕は、ひどくかるがると挙がる両腕でタムを順繰りに殴りつける。
 葦宏は、強いピッキングで低音を泳がせながら、お祭り騒ぎのように踵を踏みならして踊っていた。塗りたくった唇をひきつらせて、笑っていた。
 ステージと客席を隔てる、からっぽのオーケストラピットの底に、猶斗は身投げするように落ちて、動かなかった。
 地に這う芋虫みたいにうずくまっていた。
 だけど僕たちは待った。
 音符の間隔はずっと、ひっきりなしに猶斗の名を呼ぶやつらの金切り声で満ちた。
 赤い髪のギタリストが、憎らしいほどに眩しく艶のある弦の切っ先で、疾走する旋律を弾きぬいた。
 僕らの欲望を覚醒させる、響きを。
 なにかに挑む力で。
 弾いた。
 そうして僕たちは、待った。
 待ちつづけた。
 ひとすじの光が、僕らの見つめる先に降りそそぐ。
 ステージの下へ。
 そこから歌がきこえた。
 光の粒をはじくエナメルの背中をゆるやかに動かして、きつく握ったマイクを唇によせて、地べたから頭をもたげて、猶斗が歌っていた。
 滅びない歌を。
〈了〉
※初出 2001年12月「文学メルマ!」

ラッシュ 07

〈3〉
 白っぽい金色の髪をした猶斗がステージのへりに立つ。
 エナメルの黒い服を着て立っている。
 光が彼を追う。
 僕らのステージをつつんで冷たい鉄骨で組みあげられた一夜かぎりの架空の楼閣のように巨大なジャングルジムのあちこちからピンスポットの光線がぞろぞろと彼を追う。
 どうよ?
 僕は、いつものおどけた態度で彼に訊く。
 ちいさな綺麗な魚の群れみたいに猶斗を追っかける照明のやつらの声が僕らの頭上の鉄骨の隙間を行きかう。
 めまぐるしく背景の色を変えて本番前のテストをくりかえす。
「あァもう、ひでぇんだよ、注射の針スゴくてさ。皮膚にでかい穴あいたよ」
「注射うちゃ穴ァあくさ、普通」
「そッか」
 僕を見て猶斗が笑う。
「英治サンは物知りだなァ」
 そんな冗談をとばす。
 大量の人間の注目を浴びてその視線の刃で削られた彫刻のような顔を、僕は見る。
 研がれた顔だ。
 僕はしばらく、あんまり、それを近くで見ていない気がした。
 どんな顔のかたちだか忘れていた。
 猶斗はステージのへりに立つ。そこから客席との距離をはかるように眺めた。最前列にはおしよせる客を止めるための柵が立てられている。三メートルくらいの幅の、暗い虚無が、僕らの棲息するステージと彼らのあいだに開っている。
 そして猶斗はスポットライトの魚群をひきつれて、スタンドマイクの置かれた位置に戻る。マイクの足元に据えた黒いモニタースピーカーの外枠を、革のブーツのつまさきでかるく踏んで感じを確かめた。
「ノリコに聞いたけどさァ」
 猶斗が言う。
「英治サンいつも俺をロックスターって呼んでんだ?」
「なんだい。そんなこと聞くなや」
「イイね。ロックスターね」
 猶斗が言う。火照っている喉を右手の掌でつかむ。僕は彼の隣に立って、そこから、彼の喉を這う彼の指を見る。ショウ・マスト・ゴー・オン。彼は、平気で、笑っている。
 飽きない。
 僕らの眼が彼の肉を削っていく。
 研がれて、尖っていく。
「どうすッかな。歌えねかッたら、死んじゃうなァ。どうなッかな今日は」
 猶斗が言う。空言のように言う。
 彼の眼が見ている先を僕は見ない。猶斗の、水気の多い眼球の反射を僕は見ていた。ぎらついた眼だった。とても正気なんかじゃありゃしないと僕は思った。
「猶斗」
 僕は、彼の名前を呼んだ。
「カッコイイな」
 と言った。
 猶斗は僕を見て、なんだか、あたたかい父親の像のように、不思議な笑い方をした。得意げな子供のように、右手の人差し指を、僕の顔の鼻先につきつけた。
「惚れてンだな?」
 ナルシストだ。
 僕は、ちょっと可笑しい気分で、その僕の目の前にある猶斗の人差し指の先に、ぱくりと飢えた魚みたいに食いついた。爪に歯をあてて、指紋のあたりを舌で嘗めた。濡れた肉の味がした。猶斗が、くだらない悪戯を見たように、笑った。僕も、笑った。
 
 
   (続く)
※初出 2001年12月「文学メルマ!」

ラッシュ 06

 ??ラッシュ。
 死んだ男が言っていた。
 静脈にニードルで直に濃いメタンフェタミンをぶちこむ。
 とんでもなくトベるんだ。エージさん。
 その一瞬、にぶい愚鈍な邪魔な身体が消えて透明なタマシイだけになって神のいる場所にトベる感じがするんだ。
 神のいる、本当に真実に間違いなく高いところにいけんだ。
 ラッシュ。
 俺らは天国をそう呼ぶんだ。
 オンナいないの。僕は、彼に訊いた。別に、とギタリストは言った。彼の部屋のなかはきれいだった。少し神経質に片づいていた。誰もいなかった。バゲージラックに置かれた鞄の口は閉じていた。テーブルには一輪挿しの花瓶と灰皿とホテルのご利用案内と電話機と備えつけのメモ帳が元々のまんまで置いてあった。潔癖性なのかい、と僕は訊いた。
「たとえば、火事とかあって」
 真面目な顔で彼が言った。
「そういうときあちこちに荷物ひろげてると困るでしょ」
 そうかな、と僕は思った。
「きみ火事なんか怖いのか」
 僕が訊いたら、彼は一度眉間をしかめて、考えた。赤い前髪を透かして僕を見た。ぼそりと言った。
「不測の事態ってヤじゃないですか」
「うん。まァな」
「人とかそういうふうに死にますよね」
 礼儀正しい口調で彼がつづけて言った。
「なんかよくわかんないうちに、予測の外で、不意をついて死にますよね」
「うん」
 部屋の冷蔵庫とミニバーを眺めて、僕は小さな瓶入りの冷えたオレンジジュースをグラスのなかに移した。アルコールには手がのびなかった。酔っぱらうのキライなんだよ、と僕は何か訊かれる前に言った。
「なあ、頼むワ」
 僕は、そのわりにいまいち素面でもないようなことを言う。
「なあ頼むよ。きみのギターはだめだ。猶斗にはだめだ。うるさいんだ。本気すぎるんだ。猶斗のほうに加減がなくなっちまうんだ。やりすぎるんだ。だから猶斗の喉が壊れるんだ。商売だろ、ショウビジネスなんだぜ、ペース配分ってやつがあるだろ、わかるだろ。なあ、やめてくれよ」
 ギタリストは答えなかった。
 僕をじっと見ていた。
「猶斗はもうそんなに歌えないんだよ。昔みたいには歌えないんだよ。あいつももういい歳なんだよ、きみみたいに真っ赤な生傷に無遠慮にナマの神経むきだしてる思春期の小僧みたくさ、いつまでも初期衝動のアマチュアの青臭い若いキリキリした音で続けてらんねえんだよ。なあ、変なケンカ売るのやめてくれよ。頼むよ」
 彼は、暗いミニバーの横に立って僕をしばらく見てから、
「だって」
 と言った。
「そう弾かないと死ぬじゃないですか」
 低めの声で言った。
 僕は、なんでだかとても驚いて、ギタリストの顔を見返した。
「なんだいそれ」
 よく意味を知りたくて訊いた。
「何のケンカも売らずに猶斗さんと演ると、こっちが殺されるじゃないですか」
 彼が言った。
 あれ。
 僕は、冷たいオレンジジュースをグラスから飲んだ。ぼんやりと飲んだので唇のはしから洩れて顎が濡れた。
 あのクスリ漬けの昔のギタリスト、なんて言って死んだっけ。
(??ラッシュ)
 エージさんはたまに、いっちまわないかい。
 いかないかい。天国。
 猶斗とサ。
 猶斗とステージにいるとサ。
 ねえ。
「そうだ。ロックスターだ」
 殺されるぜ。
 僕は、ぽかんと言った。
 今、まだそこで生きている、赤い髪の新しいギタリストは黙って僕を見ていた。
「ロックスターだ。あのな。中毒だよ。依存症だ。落とし穴みたいに絶頂があんだよ。やめらんねえんだよ、それが怖いんだよ」
 僕は誰にむかって話しているのか、あんまり筋の通らない話し方をした。
「バカなハマリ方してんだ。僕も、葦宏も、ファンのやつらもだ。猶斗なんかに」
「猶斗さん、カッコイイですよ」
 愛想のない口調でギタリストが言った。
「俺も好きですよ」
「うるせえ」
 僕は両手で頭をかかえたくなった。
 降ってくる何かから頭を庇うようにしたかった。
「うるせえ。昔は違ったんだ。今とは違うんだ。馴れるんだ。耐性がつくんだ。ハマっちまった奴が死ぬのは次から次に摂取量を上げていくからだ。きりがなく貪るんだ。食い尽くしちまうんだ。でなきゃ過剰摂取でいかれちまうんだ、どっちかだ」
「いいんじゃないですか」
 平気でギタリストが言った。
「なまぬるく手をぬいて腐らせるよりずっといいんじゃないですか。天才なら」
「うるせえ」
 ガキでもねえくせに。
 青いこと言うな。
 無慈悲なこと言うな。
 僕は、そう思った。が、言わなかった。
(エージさんもですよ)
 彼が僕にそう言ったのを憶えていた。
 糞野郎。
 僕は、甘いべたつくオレンジジュースが濡らした顔を両手でこすった。何度もごしごしと拭った。半端にのびた髭がうるさかった。
 ふと思いたって、部屋の扉をあけて廊下を覗いてみた。まだ葦宏が元の場所にころがっていた。僕はこみあげる変な笑いとむかつきを感じた。
 葦宏、ゴメンな、と僕はそこから声をかけた。葦宏は、だるい顔で、眼球を動かして僕を見た。ギラッとした狂気の目玉だった。そして自動的な動きのように笑った。僕にはそれが、とても優しいものに見えた。
  (続く)
※初出 2001年12月「文学メルマ!」

ラッシュ 05

 猶斗は。
 僕が最初に出会ったころの猶斗はあんまり笑わなかった。
 馴れてなかった。
 声だけがきこえていた。
 ??歌ってたな。
 僕は、眠らずに、青っぽい光が洩れてくるカーテンの隙間から外を見た。まだ浅い夜だった。地上には電気仕掛けの光が散らばって、絢爛にまたたいていた。白い身体をベッドいっぱいにのばして、ノリコは眠っている。それは健康だと僕は思った。とても美しい。
 僕はホテルのカードキーと煙草を持って、こっそり部屋を出た。僕らミュージシャンの泊まる階は、まるごと貸しきりで、部屋を出ても勘違いしたファンの連中なんかには会わずにすむ。
 すむはずだけれど。
「エーさん」
 スリッパでぺたりぺたりと廊下を歩いている葦宏には、でくわした。眼が充血して、顔色が青黒かった。僕を見て、唇をひきつらせて笑った。葦宏がステージで化粧をするのは、素の顔が薄汚すぎるからだ。水木しげるの描くネズミ男みたいだ。僕は「おう」と意味のない声をかけた。
 葦宏には本物の妖怪みたいにぺたりぺたりと廊下を歩きまわる癖がある。覚醒剤が効いている間にじっとしているとあれこれ考えすぎて鬱になっちまうせいだ。クスリの効き目が切れればいっそうバッドになる。どっちにしても不自由なクスリだ。
「ねえエーさん」
 僕の耳元に、顎の先からすりよるようにして、小声で言った。
「ナ、猶斗サ、歌えんのかな。どうかな」
「知らね」
 僕は、本当のことを言う。
「アホかい。眠れないんだったら三宅らと飲みにいきゃあよかったんだ」
「や、やだよ。あいつらサ、酒飲んで笑ってんだぜ。俺つきあえないよ」
 ひきつった唇で葦宏も笑っているのに、そんなことを言った。
「あいつら商売のオンナ呼んでゲラゲラ猶斗のネタでくだらねえ噂して、あれんなかに指つっこんでんだぜ。エーさん、俺、やなんだよ、きたねえ悪口陰口、平気で良心の呵責無しで言うからオトナはキライだよ、みんな腐ってんだよ、きたねえよ」
 なに言ってやがんだ葦宏、てめえももう三十の手前だろ。オトナだよ。
「やだよ俺、俺はニンゲンのホンシツのミニクサを憎むよ、あれもこれもきたねえよ、怖えよ」
「酔っぱらって言うなや」
 僕は、なんとなく気の毒で、半分はいらだって、葦宏に言った。
 葦宏が、泣きそうに顔をゆがめた。ただの顔面麻痺だか、本当に泣きだしたのか、よくわからなかった。
 筋の浮いた太い指で僕の顔の両側をつかんで、唾をすするようにキスをした。
 よしとけよ。僕は、ものすごくいらだって、葦宏の腹をはだしの足の裏で蹴った。ぶすんと格好良くない音をたてて葦宏が尻から廊下にころげた。僕は、それから悲しくなった。胸郭の底のむかつく悲しみだった。
「クスリな、いいかげんにしときな」
「ハハ」
 壁に後ろ頭をぶつけて、葦宏はにやりと唇を曲げた。大丈夫だよエーさん、と言った。
 俺はサ、うまく使ってっから大丈夫だよ。バカなハマリ方してねえよ。心配ないよ。
 そうかい。
 僕は、情のない返事をした。
 やる奴ァみんなそう言うなァ。
「ハハ」
 変な膝の折り方で座りこんで葦宏がハの音の息を二回吐いた。
 僕は、葦宏の汚い顔から視線を離して、首をねじった。ぼんやりしたオレンジ色の灯りが上等なカーペットを照らす静かな廊下の先で、扉がひとつ開いた。内側から、腕が一本あがって扉の重みを押しのけた。冷静な顔で僕らのことを見た。ギタリストだった。僕の頭のなかで、そのとき、手榴弾のピンがぬけるような奇妙な感じがした。
「あんなギターがあるか」
 僕が言った。とても唐突だった。
「なんだてめえ、あんなギターがあるか」
 僕は、無意識に怒鳴ったらしかった。だいぶでかい声が出たようだった。僕のベッドの上のノリコが起きてしまうと思った。誰かがもし今、部屋のドアをあけて僕らの様子を覗いたら僕はとびかかって殴ってやる。
 エーさん、と葦宏が低い位置から僕に何かを言おうとした。僕は、大音量のバスドラを蹴るときより本気で、その汚い顔をサイドキックでふっとばした。固い頬骨が僕の土踏まずにあたって痛かった。少し爽快だった。
 廊下のカーペットに顔をこすりつけて葦宏が今度こそ本当に泣き声を出した。僕は少し愉快だった。
 ギタリストは、黙って、僕らのことを見ていた。僕の愉快な気分はすぐにさめた。いろいろな事柄がつまらなくなった。
 つまらなくなった。
 エージさん。彼が言った。あまり諦めていない声だ、と僕は思った。あんまり諦めていない呼び方だった。
「飲みますか」
 普通の声で彼が言った。ひどいやつだと僕は思った。
「おう」
 僕は答えた。
 ギタリストはそれから葦宏を見た。葦宏はカーペットにうつぶせに寝転がって呻いていた。「泣かせときな」と僕は言った。ギタリストは、僕の言ったとおりにした。
 
  (続く)
※初出 2001年12月「文学メルマ!」