ラッシュ 04

〈2〉
 白い脚をなでた。冷たい肌だった。豚肉の脂肪みたいだ。僕は、乃莉子の両膝のうらがわに顔をうずめた。腿からかかとまで、痣や傷のない、きれいな皮膚だ。ノリコは、この美しい脚に自信を持っている。脚のかたちを崩さないために、家の中でもずっとハイヒールを履いてすごすのだそうだ。
 ノリコは、ベッドにうつぶせになって、煙草を吸っている。ヴァージニアスリムだ。僕は彼女の膝のうらに片方の耳をつけて、肉の少ないふくらはぎをなでた。大理石のヴィーナスを触っている感じだった。
 ノリコは昔、猶斗の使っている女だった。僕はノリコの脚が好きだったから、ご不要になった際に払い下げてもらった。僕は眠るときに枕元にステキな脚があるといいんだ。そう僕が言うと、ノリコは幼めの笑顔で、わあうれしいと言った。ノリちゃんもね自分のアシがとても好きなの。ノリちゃんねえ自分なんかがエージさんの役に立てるならすごくうれしいの。うん、そりゃよかった。
「今夜は美帆ちゃんも梓ちゃんもねえ、ナオの部屋に入れてもらえなかったよ」
 煙を吐いてノリコが言った。
「しゃべりたくないんだって」
 へえ、と僕は答えた。そりゃそうかなとも思った。明日もステージはある。猶斗は喉を壊している。今夜、セットリストのケツから四曲分、ひどい声のままでアンコールまで歌った。不慣れな新人でもないのに、あんな露骨な壊し方は滅多にしない。だから猶斗は傷ついていると思った。
 声帯に注射をうたれて、声が戻ればライブは続行、出なけりゃ中止だ。ボーカルだけ録音済みのテープを使うという案もツアー・プロデューサーから出ていたけれど、猶斗はいやがるだろうなと僕は思った。ロックスターだ。演技の口パクはあんまりだ。
「喉、うんと、痛いのかなあ。ナオ、かわいそうだなあ」
 ノリコは、ぼんやり天井を眺める顔で言った。猶斗に使われなくなっても、彼女たちは猶斗が好きだ。
 それからノリコはうふふと笑った。エージさん足の指に髭さわるとくすぐったいよ。肩をよじらせて笑った。だめだめアハハ。僕はノリコの小指の爪を嘗めた。虹色に光るペディキュアの、石油みたいな味がした。
 
(続く)
※初出 2001年12月「文学メルマ!」

ラッシュ 03

 ステージのまわりは真っ暗だ。
 僕はなんだか無我夢中でバスドラムを喧嘩のように蹴りつける。
 左側が痛いんだ。
 キリキリキリキリ。
 客の声は透明なゼリーみたいに猶斗におしよせる。
 猶斗は笑っている。
 僕らのまわりは真っ黒だ。
 照明が四方八方から狙ってくるから外が見えないんだ。
 無人島に閉じこめられたみたいだ。
 猶斗はひときわ白いスポットに撃たれて、ひらひらまわって歌っている。
 実体のない布きれみたいに身軽に歌っている。
 若いやつらがみんな真似する、泣きの混ざったバリトンで歌う。
 みんなよろこぶさ。
 サーヴィス。
 高級レストランのサーヴィスだ。
 ようこそお客様。
 歌いだした猶斗は、滅多にドラムセットの内側の僕を見ない。僕は、ステージ衣装の猶斗の背中を見る。
 客はいる。猶斗の客は、東京なら一万人は読める。代々木競技場第一体育館、横浜アリーナ、日本武道館。そのクラスなら大体イケる。スタジアム・クラスには届かない。そこに動員の壁がある。まァ不況だしね。ここはどこだっけ。僕は、脊髄反射の運動みたいにスネアを十六分音符で刻む。
 客はいる。
 猶斗は飽きない。
 いつも笑っている。
 ??ぷつん。
 時間が途中で切れたようだった。
 あっ。
 猶斗が後ろを見た。僕は叩いていた。舞台ソデにいるモニター・エンジニアがアレッのかたちに口をあけた。ボーカルマイクの不調かと思った。違う、声だ。猶斗が僕を見て、左手の指で僕をさした。僕は、レーザー銃で脅された人間みたいに両手両足をばたつかせて、Bメロの六小節ぶんを勝手なドラムソロに変えた。
 猶斗は下を向いてマイクを持ち直す。サビを待って喉を開く。声が無い。ボーカルマイクの拾う声が足りない。ああ半分も出てねェや。
 猶斗は、真っ暗闇の客席を仰ぐ。握ったマイクを囓るように歌う。僕らのもとに、客の声がおしよせる。あいつらがかわりに歌っている。
 僕は返ってくるやつらの声の時間差に巻きこまれないように慎重にヘッドホンのクリックに耳をすまして一歩先のリズムを叩く。葦宏は、陽気に派手なベースラインをつなげている。キーボードの三宅はいまさら何もできない。手弾きのフリして、コンピューターで自動的に鳴らしている音だ。
 ギター。
 僕は、アッと思った。思った途端、背中が冷えた。腹がむかついて脳天に蒸気みたいな痛みが来た。ギタリストは、白っちゃけたムービングライトの影を浴びながら僕の叩いたリズムの通りに、セルロイドのピックで六本の弦を摩擦して音を出していた。素知らぬ真顔で、身の厚い刃物のへりみたいな音で弾いていた。
 猶斗の声を潰しやがった。
 こいつだ。
 糞野郎。
(続く)
※初出 2001年12月「文学メルマ!」

ラッシュ 02

 おまえ何よ。僕が訊く前に、それは挨拶に来た。僕は出陣前のメンバー楽屋で、缶ビールの飲み口から舌を入れて冷たい泡の苦みを嘗めていた。(僕はまじめなので本番前のアルコールは嘗めておくだけだ)
 新條さん。今日、ヨロシクオネガイシマス。おう。エージでいいわ。僕は、いつもどおりに答えて、誰だっけと相手の顔をよく見た。僕は、呆れるくらいに他人の顔を憶えられない。なのに、猶斗のバックバンドでは僕がバンマスのように扱われている。猶斗とのつきあいがいちばん長いからだ。猶斗は、バンドが潰れてソロになってから、もう十年間ほど歌っている。その間に、大勢のミュージシャンがごろごろと参入しては消えた。
 そういえば、この新しいギタリストには先週のスタジオリハで紹介されて会った。前のギタリストが死んじまったからだ。僕は、そういうことをすぐ忘れる。ステージで太鼓が鳴ってさえいりゃいい。
「ゴメンな。僕ジジーでぼけてんだ」
 僕はまじめに謝って、
「きみ先週からいたッけか?」
 そんなことを訊いた。はい、と彼は答えた。
「エーさん言うことキツイよう」
 と、僕の隣の化粧台でスプレーを使ってオレンジの長髪を流しているベーシストの葦宏が冷やかした。「なァ尚チャン、こうゆー人よ、ここんちのバンマス」化粧した唇をゆがめてギタリストに注進した。僕はそれでギタリストの名前を思いだす。
「ちげえよ葦宏、アホ。僕な、マジでやばいんだわ脳味噌のシワが。すまんのポン」
 僕は関西芸人のようにおどける。身づくろいに三時間かけるお化粧野郎。腕のほうも磨いてちょーよ。僕は、そんな科白は言わない。この平和愛好者の何がキツイんだい。
「先週、デカい音で弾かなかったろ。だから憶えてねえや」
「すみません」
 礼儀正しい奴だった。愛想はなかった。
「な、座んな」
 僕が言ったら、椅子ではなく僕の足元の床にひょいと膝を曲げてしゃがんだ。変な、小僧くさいところがあるなと僕は思った。歳いくつだ、と訊いた。二十七と答えた。
「なんだもうガキでもねえじゃねえか」
 僕が言うと、「そうだなあ」と小さくひとりごちて笑った。笑うと犬みたいに人懐こい顔だった。
 猶斗は三十三、僕は三十五だ。だから、うちらのバンドのなかじゃ若いほうだ。
「前のギターの人、長かったんですか」
「んにゃァ」
 三ヶ月いたかな。僕はそう答えた。
「すぐ死んだよ」
「死んだ」
 ギタリストが口のなかで繰り返した。
「ン。よく死ぬよココの人」
「やめてよエーさん」
 横で葦宏が薄ら笑いした。葦宏が立ってトイレに行く。覚醒剤の補給だ。葦宏の血管にはメタンフェタミンが充満している。あいつモノホンのオカマだから気ィつけな。ニギられんぞ。僕は、新入りに耳打ちする。
「あァ……」
 つきあいのように呟いて、ギタリストは僕の眼をじっと見ていた。
「なんで死んだんですか」
「自殺」
 僕は、缶ビールの中に舌を入れる。さっきよりぬるまって不味かった。
「ホテルの部屋の窓から飛んだのよ」
「あァ……」
 そういうことはよくある。そんな感じに頷いて、彼はセルロイドの黒いピックを唇に挟んだ。犬歯のあたりで噛んだ。
「高岡クンきみな、うるさく弾きすぎ」
 僕は別のことを言った。
「猶斗に嫌われるよ」
 するとギタリストは三角形のピックを噛んだまま、僕を見た。真顔だった。エージさんもですよ。そう言って立ちあがった。(続く)
※初出 2001年12月「文学メルマ!」

ラッシュ 01

〈1〉
 左側から。
 鋭角の切っ先が来た。
 電気。
 スチールの弦に帯電する振動。
 六本の糸。
 ぎりぎりに斬る音だ。
 粗く濁っているのに何かの間違いみたいに透明な音だ。
 無礼な乱暴だ。
 身が厚いのに切っ先だ。
 糞野郎。
 それは新しいギタリストだった。
 猶斗のバックメンバーはよく替わる。
 僕はもう七年ばかり彼の後ろで叩いている。
 ほどほどに仕事はある。
 それなりに名声もある。
 ああこの曲はやめとけよ。
 イントロだけの見かけ倒しだ。
 必死に弾いても甲斐がない。
 やめとけよ。
 僕はそう思った。左側、舞台上手のモニターから、ガリガリ黒板を釘先でひっかくみたいに無駄な熾烈なやかましい尖鋭な高音が高らかに華々しく無尽蔵な図々しさで、鳴りひびいた。糞野郎。
 猶斗は、ステージの中央で、白っぽい金色の髪を束ねて、まだリハーサル中だからコットンのフード付きのパーカを着て、歌わずに、にやにや笑っていた。
 猶斗はいつも笑っている。
 笑うのが癖になっているように笑う。
 ロックスターだ。
 笑う気分に慣れている。
「英治サン、うるせえよ」
 ふりむいてドラムセットの内側の僕を見て、にやにや笑って、ボーカルマイクに口をつけて言った。
「おう。ジジーは短い寿命ふりしぼってタイコ叩いてまっさ」
 僕はおどける態度に慣れている。左のスティックで思いきり、サイドシンバルのエッジをぶちならしてやった。
 ギタリストが僕を見た。
 赤い髪を透かさないと眼が見えない顔だ。
 なんて名前だっけ。
 軽い紙の棒みたいにフェンダー・テレキャスターのネックを左手に握って、癇癪もちの金属のかたまりみたいなコードを右手で一気に殴るように弾いた。
※初出 2001年12月「文学メルマ!」