猶斗は。
僕が最初に出会ったころの猶斗はあんまり笑わなかった。
馴れてなかった。
声だけがきこえていた。
??歌ってたな。
僕は、眠らずに、青っぽい光が洩れてくるカーテンの隙間から外を見た。まだ浅い夜だった。地上には電気仕掛けの光が散らばって、絢爛にまたたいていた。白い身体をベッドいっぱいにのばして、ノリコは眠っている。それは健康だと僕は思った。とても美しい。
僕はホテルのカードキーと煙草を持って、こっそり部屋を出た。僕らミュージシャンの泊まる階は、まるごと貸しきりで、部屋を出ても勘違いしたファンの連中なんかには会わずにすむ。
すむはずだけれど。
「エーさん」
スリッパでぺたりぺたりと廊下を歩いている葦宏には、でくわした。眼が充血して、顔色が青黒かった。僕を見て、唇をひきつらせて笑った。葦宏がステージで化粧をするのは、素の顔が薄汚すぎるからだ。水木しげるの描くネズミ男みたいだ。僕は「おう」と意味のない声をかけた。
葦宏には本物の妖怪みたいにぺたりぺたりと廊下を歩きまわる癖がある。覚醒剤が効いている間にじっとしているとあれこれ考えすぎて鬱になっちまうせいだ。クスリの効き目が切れればいっそうバッドになる。どっちにしても不自由なクスリだ。
「ねえエーさん」
僕の耳元に、顎の先からすりよるようにして、小声で言った。
「ナ、猶斗サ、歌えんのかな。どうかな」
「知らね」
僕は、本当のことを言う。
「アホかい。眠れないんだったら三宅らと飲みにいきゃあよかったんだ」
「や、やだよ。あいつらサ、酒飲んで笑ってんだぜ。俺つきあえないよ」
ひきつった唇で葦宏も笑っているのに、そんなことを言った。
「あいつら商売のオンナ呼んでゲラゲラ猶斗のネタでくだらねえ噂して、あれんなかに指つっこんでんだぜ。エーさん、俺、やなんだよ、きたねえ悪口陰口、平気で良心の呵責無しで言うからオトナはキライだよ、みんな腐ってんだよ、きたねえよ」
なに言ってやがんだ葦宏、てめえももう三十の手前だろ。オトナだよ。
「やだよ俺、俺はニンゲンのホンシツのミニクサを憎むよ、あれもこれもきたねえよ、怖えよ」
「酔っぱらって言うなや」
僕は、なんとなく気の毒で、半分はいらだって、葦宏に言った。
葦宏が、泣きそうに顔をゆがめた。ただの顔面麻痺だか、本当に泣きだしたのか、よくわからなかった。
筋の浮いた太い指で僕の顔の両側をつかんで、唾をすするようにキスをした。
よしとけよ。僕は、ものすごくいらだって、葦宏の腹をはだしの足の裏で蹴った。ぶすんと格好良くない音をたてて葦宏が尻から廊下にころげた。僕は、それから悲しくなった。胸郭の底のむかつく悲しみだった。
「クスリな、いいかげんにしときな」
「ハハ」
壁に後ろ頭をぶつけて、葦宏はにやりと唇を曲げた。大丈夫だよエーさん、と言った。
俺はサ、うまく使ってっから大丈夫だよ。バカなハマリ方してねえよ。心配ないよ。
そうかい。
僕は、情のない返事をした。
やる奴ァみんなそう言うなァ。
「ハハ」
変な膝の折り方で座りこんで葦宏がハの音の息を二回吐いた。
僕は、葦宏の汚い顔から視線を離して、首をねじった。ぼんやりしたオレンジ色の灯りが上等なカーペットを照らす静かな廊下の先で、扉がひとつ開いた。内側から、腕が一本あがって扉の重みを押しのけた。冷静な顔で僕らのことを見た。ギタリストだった。僕の頭のなかで、そのとき、手榴弾のピンがぬけるような奇妙な感じがした。
「あんなギターがあるか」
僕が言った。とても唐突だった。
「なんだてめえ、あんなギターがあるか」
僕は、無意識に怒鳴ったらしかった。だいぶでかい声が出たようだった。僕のベッドの上のノリコが起きてしまうと思った。誰かがもし今、部屋のドアをあけて僕らの様子を覗いたら僕はとびかかって殴ってやる。
エーさん、と葦宏が低い位置から僕に何かを言おうとした。僕は、大音量のバスドラを蹴るときより本気で、その汚い顔をサイドキックでふっとばした。固い頬骨が僕の土踏まずにあたって痛かった。少し爽快だった。
廊下のカーペットに顔をこすりつけて葦宏が今度こそ本当に泣き声を出した。僕は少し愉快だった。
ギタリストは、黙って、僕らのことを見ていた。僕の愉快な気分はすぐにさめた。いろいろな事柄がつまらなくなった。
つまらなくなった。
エージさん。彼が言った。あまり諦めていない声だ、と僕は思った。あんまり諦めていない呼び方だった。
「飲みますか」
普通の声で彼が言った。ひどいやつだと僕は思った。
「おう」
僕は答えた。
ギタリストはそれから葦宏を見た。葦宏はカーペットにうつぶせに寝転がって呻いていた。「泣かせときな」と僕は言った。ギタリストは、僕の言ったとおりにした。
(続く)
※初出 2001年12月「文学メルマ!」