〈act.1 love blue〉
――もしも、きみに羽根があったなら
濁った、僕の錆色の両眼が何をうつすことも今はないから。
たとえどれほどまばゆく純粋に、きみの翼が光っても。
もうけっして視えはしないだろう。
だからどうか、
熾烈なかがやきに魂をうたれて僕が遠いところへ滑落するまえに僕らが此処にいた痕跡ごと潰してしまうんだよ。
――“ああ、ぼくの躰なんかなんべん焼いてもかまわない”
僕が天使であったことを。
わすれて、きみは往くんだよ。
あのころの僕らの、
美しい誓いの為に。
〈act.2 love red〉
くれないの花弁にくちびるを触れて。
案外と乱雑に、かみちぎる貴方のしぐさを見ていた。
散るものは深紅。
「花言葉を知っているかな」
かれが言う。
「いいえ」
嘘をついたように思った。
知っていた筈だった。
わすれてしまったんです。僕の背面の無意識が僕の頸をおさえてすべてを止めてしまったのです。記憶も感情も理想的なロジックも。いつか神なるものがつまびいた時間の弦楽に酔わされて、惑わされてしまったのです。なにに、どのように魅せられてどうして岐路の一方を選んだのかも、もうわすれてしまったんです。
はらはらと貴方、赤の風に舞うならば、うつくしい狂気絵の世界が拡がると夢想する。
いまとなればそれだけが僕の精一杯なのです。
嘗て酷薄に、僕のまえで貴方が。
あるがままに立つことで、教えたのです。
もとめるならば絶望の泥地にふみいるばかり。
死よりも甘く。
闇よりも。
(どうかいらだたないでください)
(僕の為に、薔薇を殺す貴方では在らないでください)
ここにあるものは、遠く天に玉座を仰ぐ身勝手な信奉者の祈り。
(自堕落な使徒たちの有様にキリストは)
それならば、いったいだれがなぜ、使徒を堕としたのですか。
敬虔に信じたであろう者を。
無邪気な子羊を。
いばらによって縛め、棘もつ花を植えた。
神の罪。
「知りません。赤い、薔薇のことは。花の色が黄色なら花言葉も憶えているんですが……。すみません」
「おまえにもわからないことはあるんだな」
「背伸びをやめただけです。俺は本来、贅沢と怠惰を好む性分なので。どんなことでも、ひとに教えるよりも、だれかに教授されるほうが楽だと気づいたので」
「成程。僕から何を知りたい?」
「さあ……」
もうわすれてしまったんだよ。
そんなすべてを。
「斎伽さん」
だから僕は立ち上がる。ひとりきり席を立つ。与えられた器に、満たされていた熱い琥珀の海は、すでに時の経過とともに喪われて、のこっていないから。
いま、貴方から去る以外に、なすべきことがあるだろうか。
「美味しいお茶を、ありがとうございました」
「紅茶なら、おまえがいれたんだよ。ゴールデン・ルールは承知していると言って」
「俺は、あなたを鑑賞していたので。その御礼です」
いらだたないでください。
けっして、僕は貴方をきずつけはしないだろう。
「おやすみなさい」
貴方は敢然といるだろう。
いつまでも。
微塵の瑕もなく、うつくしいだろう。その滅び死ぬ一瞬の最後まで、けがれなく眩しいかがやきだろう。おそろしいほどにそれは純粋な真実だろう。貴方をみることで僕の瞳が焼け爛れ、贋の翼をつなぐ蝋が熔けて、この躰が塩の像と化して、そのように僕が罰されるときにも。
「それで何処へ行く?」
「さあ……。西へでも落ちのびるかと。個人的に、行きたい大学が京都にあるので、迷っているのは事実なんです」
「十九郎。おまえが僕に、厄介をかけたいだけだということはわかっているよ」
かれが言う。たやすく。
僕は笑う。
「ありがとう。俺はそういうあなたが好きです」
〈act.3 flowers〉
「俺とおまえの間がこじれる理由なら知っているんだ。だから、もういい」
十九郎が、そう言った。
「馬ッ鹿じゃねえのか」
心底から希沙良は吐きだす。
「理由ってのは知って安心するためのもんじゃねんだよ。わかって、その先に何か良くするために使えよ、そういうもんは」
「いやだ」
シンプルな三文字で十九郎が答えた。
一瞬、希沙良は、両眼をきつく瞑る。かれの拒絶をやりすごす。
正直すぎることばに、まだ馴れない。
「俺が改善努力に汲々とする姿を見せつければ、おまえは気分が良いかもしれないけれど、できないことをできると標榜する自分自身を俺は見たくないよ」
「そうじゃないだろ」
ためいきをつく。
「おまえのせいで俺の気持ちがどうなるかじゃないだろ。おまえの心ん中がもっと……今より、もっと……」
「もっと健全に? 良識をもって、人として正しく? 何のために? よくわからないんだ」
「おまえのために決まってんだろ! おまえがぜんぜん今、幸せそうじゃねえから……」
「それでおまえが迷惑するなら遠くに行けばいい」
「いやだ」
今度は、希沙良が言い放つ。
「俺だって勝手だからな、おまえと同じくらいには」
「ほら」
十九郎は静かに指摘する。
「やっぱり、おまえはおまえのために俺を変えようとする。だけど、俺には、おまえに都合良くなることはできないんだ。できない約束をしたくないんだ」
だから堂々めぐりになってしまうのだと思う。
(うそつき)
(きみの羽根は輝かしいままなのに。もはや僕が二度と誇らしくきみの盾となり護らなくても)
(必要ないと告げているのに)
なぜ、とりのこされて。
笑えないと愚図る子供のように。無様な抵抗をくりかえすのかと。
幾度も自問する。すぐにこたえはでる。そして回答はわかっても解決策はない。
(はじめから、僕らのうちのどちらかが、いなければよかったのにね)
(残念だね。とても、残念だったね。ひとつのものであったなら、よかったね)
口許で、軽く微笑して。
「ごめん。俺には一つ憶えの芸しかないんだよ。古びて、使えなくなった。――『大好きだよ、希沙良』」
〈act.4 angel bites〉
「あらあら」
と、水沢諒が呟いた。厭味やからかいに似せる努力が少しばかり足りなかったので、まともな友人同士の普通のセリフに陥りそうな微妙なところだった。そいつは勘弁してくれとお互いに思ったタイミングも等しく、希沙良はわざと必要以上に諒を睨みやり、諒はサーカスの芸人のように両手をひろげて「じゃーん」と小声で効果音をいれてみせた。
「今宵もきみは儚く敗れんか。おお、涙をおふきよマドマゼル」
「るせえッ」
「ねえ、もうわたしらイイ歳なんですから両目から泣くのやめようよ。片目にチラッと光が、っつーくらいなら俺も見ぬフリするのにい」
「っるせえんだよ他人事に出歯亀すんな!」
「他人事、他人事ですわねえ。波風キライです。あらでもどーして俺の手に洗濯済みのタオルが? おやどーして勝手に和泉君の顔面に直撃?」
パイ投げの要領で、白いタオルを投げつけると、
「それは夜中に泣いてる子がいると鬼婆が来て叱られちゃうからだねっ『泣き虫はいねがー、弱い子はおらねがー』」
「それぁなまはげだろ」
「大差なし」
「あのさ」
「喋る前に蛇口の栓しめなさいよ。君、一人の相手に関して泣きすぎ。蓄積量として見て、そこんとこどうなのかと」
「しまんねえんだよ! こわれてんだよ、俺の意志じゃねえんだよ! 蛇口の好きにさせとけよ」
「君、フツーの顔で喋るのに眼だけ泣いてて怖いんだもん」
「っとけよ。あのさぁ、てめえに頼みあんだけど」
「へい」
ものを頼む態度かい、とツッコミを挟むのは忘れない。
「てめえ俺の手のこのへん、思っきし噛んでみてくんねえか。どれくらい痛いのか」
「……………………和泉君やるにことかいてそれは凄くやばいゾーンに」
「だってわかんねえだろ自分でだと無意識で加減すっから!!」
「てゆーか誰の手を噛んできたんかいマジで!!」
「だから俺ぁ絶対あいつ殴りたくねえからどーにか我慢して我慢して我慢してそんで……!!」
「我を忘れるまでガマンすんな阿呆、殴っとけ。いきなし噛みつくより数段ましですわ。もービジュアル的にマヌケだもん」
「他人事だろ、そっちには」
「イエース、あきれました。ワタクシお願いされても当事者にはなりたくないデス。イッツ・ソー・クレイジーね」
本当に、すっかり気が狂っている話だと希沙良自身も思うから、誰かに茶化してもらわないとやりきれないのだ。
しかし挙句に諒が「あなたが噛んだ小指が」云々と歌いだした瞬間にはさすがに肘うちで黙らせた。
「よく頑張るねえ、君もあちらも」
「んなことも自分じゃわかんねえよ」
「そらそうか」
「泣きてえ」
ぽつんと吐いた希沙良に、泣いてるじゃないかと諒は言わない。
「したら今度、俺が和泉君に思っきしムカついたときに全力で噛みついたげますよ。そーすりゃわかる」
「泣くほど痛えかな」
「てゆーか普通ためしてみなくてもそう思うのでは?」
「あいつ泣いたかな」
「知らん」
諒はそっけない。片手のタオルに希沙良は顔を殆ど埋めて、しばらく黙る。
「……でもあいつ俺のこと『大好き』なんだぜ」
「…………そらそうでしょう。ヤな愛情表現だけど」
「最悪だよな、俺ら」
「うん。お気の毒、ご愁傷様」
舌打ちして希沙良が睨んだ。しらっと諒が視線を宙へ逃がした。仰いだ天のどこかに、零れた噛み傷が残っているように。
〈了〉
※初出 1998年12月 (商業誌未発表作品)