CODE XR original episode

「みみみミスタ・クレイトン?」
 十六歳の年若いメイド、ルウ・シルヴィアンが目をまるくしたのは、米国東海岸マサチューセッツ州ボストン郊外の屋敷において、冷えこみの厳しくなってきた初冬の、ひときわ寒い朝方のことだった。
「ああ、何か困った問題が? ミズ・シルヴィアン?」
 ナプキンを置き、朝食の済んだテーブルを立ち去るところでエドウィン・アーサーが反問する。あまりに悠然として、心当たりのないようすだったので、ルウはそこから先をどう訊いていいものかと思考停止に陥ってしまった。
 館の主人ことクリストファー・ローディン・ジュニアがこの場にいたならば、あの尋常でなく勘のよい少年はルウよりも早くそれに気づき、食卓での話題にとりあげていただろう。いや、もしかしたら言葉に出すことなく、彼ら二人だけの『心のお話し合い』ですまされてしまってルウがその内容を聞き及ぶことは不可能であったかもしれないが、だがしかし。
 クリストファーは一昨日から熱の出る風邪をひきこんで、食事もベッドのなかでとる状態がつづいている。
 めずらしくはないことだ。年間を通じて、ひとつの季節に一度は必ず――冬ともなれば三度くらいは――クリストファーは風邪をひくきまりになっている。もとから体質が決して頑丈にはできていないのだと医者は言う。あれだけ優れた容貌と中身とを生まれつき持ちあわせていれば、それもやむない仕儀だろうとルウにも得心がゆく。
 そしていくら毎度のことであろうとも、少年の忠実なる側近エドウィン・アーサー・カンナギ・クレイトンが事態をどうでもいいものと見ているわけがないのも、また当然の運びであるはずだった。
 結論。へたな話題は出さぬが勝ち。
「いえ、なんでもございません! わたくしの勘違いでした!」
 あたふたと場を取り繕って、ルウは食卓からフルーツの皿をとりあげ、エドウィン・アーサーの目が届かぬ廊下へ出たとたん大急ぎで厨房まで駆け戻った。
「ジャスティーンさん! ジャスティーンさん、ご存知でした!? あのこと!」
 年長の同僚をつかまえて囁く。あからさまにジャスティーン・コールはいやな顔をする。
「何よ、いそがしいときに」
 だらしなく脚を組んでヴァージニアスリムライトを一服していたことは、きっちり棚上げされている。カード破産をまぬがれる金策のためやむをえず化けもの屋敷で働いている彼女の意識はつねに、どんなときでも、いそがしいのである。
「わたし今朝初めて見たんですけど、ミスタ・クレイトンの……」
「あらあの男が何よ」
「左手の薬指に、指輪がっ!!」
「なあああんですってー!?」
 ジャスティーンが椅子からはねあがって悲鳴をあげた。ああやっぱりみんな驚くんだわ、とルウは胸をおさえて納得する。
「わたし、この屋敷に勤めるようになって半年余りになりますけど、あんなもの見たのは今日が本当に初めてです!」
「ちょっと待って、あいつ確かバツイチって噂じゃなかったの、いつのまにそんなことになったの、どこで女つかまえたの、でなきゃ元から奥さんいたの、なんだ不能じゃなかったの、ああやだやだやだやだショック」
 ジャスティーンはジャスティーンで、ルウとはいまひとつ違う観点から衝撃をうけている気配だった。成熟した女性の考えることは、ルウにはなかなか理解が難しい。
「今日一日、様子を見てみて、明日もまだ指輪をなさっているようだったら、差し出がましいですけれど所以を伺ってみようかと思います。だってやっぱりおめでたいことでしたら、知らぬふりは心苦しいですもの」
「そうそうそう、そうね! 問題は、明日まで続いてたらよね!! あんたしっかり目を光らせるのよ」
「はい! ジャスティーンさんも何か変化を見つけたら教えてくださいね!」
 この一瞬だけ意気投合して互いの手を握り、二人のメイドはそれが一大使命であるかのごとく頷きあった。実際、たかだか二十四歳の身空で、十一歳と半分の子供に人生をまるきり捧げているとしか見えないエドウィン・アーサー・カンナギ・クレイトンという青年の『内的事情』は、いくら推測の力をはたらかせようとも覗きえないものだった。

「ふうん。変なこと気にするんだなあ、女の人たちって……」
 高熱で潤んだ翠色の双眸をどこへともなくさまよわせて、羽根布団のなかに華奢な身体を埋めたクリストファーがぽつんとひとりごちた。
「どうかいたしましたか?」
 風邪にはビタミンCの補給が第一と温めたレモネードを枕元まで運んだエドウィン・アーサーが、それを聞きとがめる。どうしようかなとクリストファーはぼんやり天井を眺め、
「うん……たいしたことじゃないんだけど」
 説明を避けたのちに、どういう思考の手順を踏んだものか不意に、
「エドウィンには秘密」
 と、言い足した。サイドテーブルにトレイをおろすエドウィン・アーサーの手元がやや狂いがちになったのは、ごまかしがたい事実である。
「……左様ですか」
「そう。秘密」
 淡々と念をおされてはエドウィン・アーサーもつっこんだ問いかけを返せない。いつもならば、クリストファーはそうそう持ってまわった謎かけはしない人物なのだが。
 なにしろ彼は風邪をひいているのだ。多少、普段とふるまいが違ったとしても、いたしかたがない。
「ああなんだか、ユーロディズニーでも観にいきたい気分だな、エドウィン」
「いくらでもお連れいたしますよ。クリス様のお風邪さえ治られましたら」
「うん……そうだよね、風邪なんだよね、当面の問題は」
 小さい咳をこぼすとクリストファーは退屈そうに自分の熱っぽい額に掌をあて、いやだなあと呟いた。
「まったく、困った風邪はさっさと私に伝染して、クリス様が楽になってくださるとよいのですが」
「えっ? 何? 風邪って人に伝染したら治るの?」
「世間では俗に、そういう考え方をすることもあるようですよ」
「ふうん。でもエドウィンにあげちゃったら可哀想だから、この際、ウォークマンに貰ってもらおうかな」
「しかし彼は……」
 異世界人がはたしてクリストファーと同じ種類の風邪をひきこむのかどうか、エドウィン・アーサーにはわからない。
 ソニー・ウォークマン・エクセル、別名ファイアマスター・ガディスは、昨夜から『遊び』に出たきり、まだ屋敷に戻っていない。あの野蛮人のしでかす遊びといえば不道徳にして非合法な類の、ひまつぶしだ。エドウィン・アーサーは頭からそう決めつけている。クリストファーの情操安定のためには有害な部分が多すぎる。さしあたりの玩具としてクリストファーがいまだ彼を気に入りつづけている以上、たやすく追い出せはしないのが、苦しいといえば苦しい事情だった。
 個人的には、嫌いではない。好悪の判断を下す以前に、そんな『嫌い』などという対等の感情がうまれるレベルに身を置きたくないというのが正しい。……要は『大嫌い』なのではないかと疑う声も理性のどこかからは上がるが、それは黙殺に価するものだった。
「あのねえ、エドウィン、ためしに訊くけど……」
「なんでしょう?」
 邪気のない、純粋なクリストファーのまなざしに、なるべくにこやかにエドウィン・アーサーも応じようとする。
「キスしたら風邪って伝染るかな?」
「は?」
 ぶえっくしょい、と巨大なくしゃみを放ちつつ赤毛のファイアマスター・ガディスが少年の寝室の入り口へ――すなわちエドウィン・アーサーの背後に帰還したのがそのときだった。
「……………………………………………………」
 形容も修飾もしがたい、なんともいえず複雑怪奇な沈黙とともにエドウィン・アーサーはそちらを眺めやる。
「ったくひでえ風邪だ」
「……何の用かな、ミスタ・ウォークマン?」
「用も何も、小僧に土産だ。そら『チャーリーブラウンとゆかいな仲間たち』のビデオ、あったぜ」
「ああ、ありがとうウォークマン、これ欲しかったんだよね」
 はなからエドウィン・アーサーを視界に入れないソニー・ウォークマンに、クリストファーは屈託なく謝礼の言葉などを投げかけている。
「したら俺は寝る。ともかく寝る。死んでも寝る。じゃあな」
「うん、またね」
 なおも大きなくしゃみを連発しながらソニー・ウォークマンはとっとと病人の寝室を立ち去った。ごほんと形だけの咳払いをして、エドウィン・アーサーはしばし次の語句を喉からひきだすのに時間をおいた。
「クリス様、さきほどのご質問ですが……」
「うん、何?」
「せずにいた場合よりも、した場合のほうが、風邪のうつる確率は高いでしょうね」
「そうだね、確率はね。あともうひとつ訊いていいかなエドウィン?」
「なんでしょう?」
 硬直した表情をなんとかゆるめる努力をくりかえし、そつのない口調でもってエドウィン・アーサーは再びそう応じる。
 熱のせいか妙に据わっている――熱のせい以外に何があるというのだ――エメラルドの瞳をベッドの中からじろりと持ちあげて、クリストファーが尋ねた。
「その指輪、誰の?」
「は? あああ……そういえば……失礼いたしました」
 思いもよらぬ指摘にエドウィン・アーサーは己が左手を見おろし、昔の結婚指輪をしたままだったことに気づく。〈覡の属〉としての役目上において、配偶者があると周囲に知らしめたほうが好都合な場合にのみ、填めることにしていたものだ。仕事を円滑にはこぶためのカムフラージュのひとつにすぎない。
 デザインだけは揃えてあったが。
 サラと。
「ふうん」
 エドウィン・アーサーの表層意識を読みとったクリストファーが、無感動に、納得をした。
「ゆうべはそれを填めとかないと、ヴィクトリアが離してくれそうになかったんだ?」
「いえ、つまりただの……用心です」
「ふうん。ヴィクトリアなんて指輪どころか十一歳半の子供までいるのにね。あのひとにはそれ自分で見えないんだよね。可哀想、だね」
 ヴィクトリア・ローディン。
 昨夜、ニューヨークからここまで我が子の見舞いにかけつけておいて結局ほんの二時間しか屋敷に滞在しなかった、若く美しく身勝手な女性の名だ。
「ですが……私には充分に見えておりましたよ。クリス様」
「エドウィン今、自分で言い訳がましいと思ってる? じゃあ喋るのやめていいよ。僕も風邪薬きいてて眠いし。おやすみなさい、またあとでね」
 クリストファーの断定によってエドウィン・アーサーの言辞は完璧に絶たれてしまった。
 確かに、あえて力をこめて、クリストファーの睡眠を妨げてまで弁解すべき種類の話ではない。エドウィン・アーサーもそう考えた。
「おやすみなさいませ」
 羽根布団のめくれを直し、エドウィン・アーサーは丁重に告げて少年の部屋から退出する。
『……ああでも、ねえ、エドウィン』
 ふと、微弱な独白のように、感覚にふれてくる声があった。
『どうしてもってことだったらエドウィンに風邪、うつしてあげてもいいよ』
「…………」
 エドウィン・アーサーは静まりかえった室外に、また解きがたい難題をつきつけられた心地で立ち尽くしたが、すぐにクリストファーの精神がことんと眠りに入ってしまったため、自分ごときの狭い思考領域のなかでは余計なところへ発想をめぐらせないでいたほうがよかろうと判断した。

 なにしろ――
 本当に、クリストファー・ローディン・ジュニアはそのとき、ずいぶんな風邪をひいていたのだ。

〈了〉

※初出 1995年12月 (商業誌未発表作品)

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